近藤不二道先生40年祭    教会長

  父方の祖父(小阪初代)は、難波教会二代教会長の元で、修行し、難波の手続きをもって小阪に広前を開きました。生まれた時から、難波の信心が中心の教会で育った私は、祖母や両親に、幼い頃から難波教会によく連れて行ってもらいました。
小学校5年生の秋から、姉の影響を受けてエレクトーンに興味を持ち、難波教会の近くのヤマハなんばセンターに、週1回習いに行かせてもらいました。行きがけに、難波教会へ立ち寄り、お参りをするようになりました。別に親から言われて行ったわけでもないのですが、行くようになると、「えらいねえ」と褒められ、お茶やお菓子をご馳走になり、両親には褒めてもらえるという、自分にとっては良いことずくめでした。その頃、お広前の火鉢近くに座っておられたのが、四代教会長近藤不二道先生でした。子ども心に、凜々しくてどこか貫禄がある先生でしたが、当時不二道先生は、三十代半ばの、今で言う青年教師でした。
後に教会長になられる、先生の長姉の武野先生や、ごきょうだい、書生の先生方がいらっしゃいましたが、なぜか不二道先生の印象がとても強く残りました。

 不二道先生は、私が高校一年生の春、難波教会布教100年記念祭を仕えられ、6月には翌年開校する金光第一高校(現、金光大阪)の地鎮祭を仕えられた後の、昭和56年10月8日、病に冒されて40才でお国替えされました。
先生は、「参る・聞く・行う」という、いともシンプルな信心目標を掲げられ、教会活動に尽力され、また一方で、38才の若さで浪花金光学園の理事長に就任し、現在の関西金光学園の基盤を築かれました。
10月6日に執り行われた墓前祭では、典礼のご用をいただきました。ありがたい極みであると感じると同時に、先生の信心の徳を少しでもいただき、難波の「心配り」の信心を実践できるよう、おかげをこうむりたいと願っています。

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